鉄の掟/前編
「日雀、学校はどう?」
妹の涼にそう尋ねられ、日雀は顔を綻ばせた。
「楽しいよ。全てが新鮮」
「よかったわね」
そんな日雀の様子に涼は微笑んで返した。
涼は茶花を嗜むようなきっちりとした着物姿。藤色を基調とした布地に牡丹の描かれた上品な物だ。
日雀は篠青の小袖に二藍の袴姿という少々変わった色合いの格好だった。
二人は大きな和室でくつろいでいた。
縁側から夜風が心地よく吹き抜ける。
日雀達の住まう出雲家は江戸から続いてきた旧家だ。
広大な敷地に木造作りの大きな家、同じ敷地内には道場もある。
全体的に『和』に統一された空間だった。
「でもね、イマイチ馴染めないって感じもあるかな」
「仕方ないわよ。今までが『こういう生活』だったんだから」
日雀の言葉に涼が苦笑を漏らす。
涼は日雀の二歳年下の妹だが、そんな事を微塵も感じさせないような大人びた仕草だった。
実際、涼の容姿も同年齢の子供とは比べ物にならないほど落ち着いたものだった。
ふと、家門の付近が騒がしいことに気がついた。
この家には、下働き・門下生を含め、常時50人は待機している。
人並みが、一気に家門の方に押し寄せていった。
日雀と涼は一体何事だろうと障子を開けようとした時、慌てて現れた門下生の一人が勢い良く障子を開けた。
慌てた様子で、肩を上下に動かしていた。
「どうした?」
日雀は落ち着いた、また僅かに男を思わせるような口調で、障子を開けた男に尋ねた。
「し・・・師範代」
男は慌てたように日雀に視線を向けた。
『師範代』というのは、他でもない日雀のことだ。
日雀のような若年齢でこのような大きな道場の師範代というのは、信じられない感がある。
この出雲家は、旧家の厳しいしきたりを重んじており、何より『男』と『女』の扱いの差が激しい。
上に立つのは『男』であり、『女』は影から男を支えることを常とする。
また、出雲家は武道を生業とした一族であるため、『男』に求められるのは他でもない『強さ』だった。
強い者ほど一族の中で高い部位に宛われる。父子・若齢高齢は全く関係ない。たとえそれが『下克上』になるとて、全く問題ではない。
出雲家では『強さ』こそが全て。『血の繋がり』など殆ど意味を持たないのだ。
一番強い者が出雲家を統べる。一番強い者が出雲家を支配する。
それが出雲家唯一絶対の『掟』である。
しかし、日雀は出雲家で唯一『例外』だった。
出雲家の女は、さほど武道を嗜まない。
しかし、日雀は違った。
出雲本家の『息子』として育てられてきたのだ。
出雲一族を統べる者の命令は絶対だ。現在出雲家当主は日雀の父だ。
日雀の父は日雀が3歳の時に起こったとある事件を境に、日雀を女として育てることを止めさせた。
変わりに日雀に与えられたのが『息子』としての人生だった。
この未だ嘗て例を見ない事態に一族の不満や反発も激しかったが、それは『当主』の決断だ。逆らう術はない。
それから日雀は武道を嗜むようになった。それが転機だったのかも知れない。
日雀には他の者にはない秀でた武道の才能があったのだ。
その為、日雀が出雲家の高位に躍り出るのにはさほど時間はかからなかった。
現在、当主の下に位置づけられているのは本家長男の要、同位が日雀だった。
出雲一族の中で当主を抜いて強さを測るとすれば、間違いなくこの二人が一番だろう。
要の事は一族もすんなり認めた。
しかし、日雀はそうはいかなかった。
いくら『息子』として育てられたからといっても、『女』というリスクが消せるわけではない。
女の日雀が、出雲一族の上に立つことは、一族にとっては大きな不満だった。
そのせいであろう、日雀に対する親族の風当たりは痛々しいものがあった。
しかし、日雀はその事に対し、不満を述べることは一切無かった。
陰口も、叱咤も、罵りも、全て黙って聞いてやった。
日雀の味方は、この壮大な出雲一族の中で数えるほどしかいなかったのだ。
この本家の道場の師範は基本的に当主に継ぐ役所といえる。
それは強さの証だった。
『師範』は日雀の兄・要が、『師範代』は日雀がそれぞれ務めている。
実際、この二人の強さは互角といえよう。
下手をすれば、要よりも日雀の方が強いかもしれない。
日雀はそれ程までに強かったのだ。
しかしそんな二人でも、未だ当主である父の実力には遙か及ばない。
出雲一族では『当主』の敗北は『当主交代』を意味する。
たとえそれが息子であれ、親族の端くれであれ、同じ事だ。
『強い者が出雲を統べる』
幼い頃から、嫌になるほどに言い聞かされてきた。
日雀は息を荒げた男を見据えて再度口を開いた。
「何があった?」
慌てることのない、落ち着いた口調だ。その幼い容貌に関係なく、凄まじい威厳が感じられる。
そんな日雀の様子に、男は1度大きく深呼吸を戸惑いを捨てきれていない瞳で日雀を見返した。
「旦那様が・・・帰ってこられました」
男の言葉に、日雀と涼は目を見開いた。
出雲の当主は多忙ゆえ、家を空けることが殆どだ。
帰ってくることも、年に数えるほどだろう。
そんな当主が、予告もなく帰ってきた。
日雀と涼は急いで玄関へと向かった。
「要・・・!」
ふと見慣れた兄の背中が目に入り、日雀は名前を呼んだ。
その声に反応するように、要が勢い良く振り返る。
「日雀と涼か」
「『御当主』は・・・?」
「自室に戻ったそうだ・・・日雀、お前は『離れ』に居た方が・・・」
「日雀様」
要の言葉を遮るように、下使いの女中が日雀に呼びかけた。
その呼びかけに、要と涼は苦虫を噛み潰したような険しい表情になる。
日雀は小さく息をつくと、その女中に向き直った。
「何?」
「『旦那様』がお呼びで御座います」
「・・・わかった。直ぐ行く」
『旦那様』とは他でもない、出雲家当主である日雀達の父のことだ。
親族を除くこの家の者達は、彼のことを『旦那様』と呼ぶ。
女中の言葉に、日雀は踵を返した。
「日雀・・・!」
振り返れば心配そうな表情を浮かべる要と涼。
そんな二人に、日雀は笑顔を見せた。
「大丈夫だよ」
そう一言残すと、日雀はそのまま板張りの廊下を歩いていった。
家自体が古い作りであるため、所々板の軋む音が聞こえる。
廊下が短いのか長いのか、それとも時間が進むのが早いのか遅いのか。
『この時』いつも日雀はそんな亜空間にいるような感覚に襲われる。
向かうのは父である『出雲家当主』の自室。
空気が重い。
日雀は目的の部屋の前についた。
一度深呼吸をすると、障子の前に膝をつく。
「御当主、日雀です」
「入れ」
日雀の言葉に、中にいる人物は短くそう答えた。
日雀は両手でゆっくりと障子を開け、中にはいると、再び両手で静かに障子を閉めた。
部屋の中にいた人物は歳を感じさせないなんとも端正な顔立ちの和服の似合う美丈夫だった。
切れ長の黒い瞳に、少し長めのショートカットのような漆黒の髪。時折、長い前髪をかき上げる仕草を見せた。
日雀の父─────瀬繼(セツ)だった。
部屋に入った日雀は、瀬繼と2メートル程距離を開いた位置に、向かい合うような形で丁寧に正座した。
畳に両手をつき、ゆっくりと頭を下げる。
「お帰りなさいませ、御当主」
中学生とは思えない、完璧な身のこなしだった。
それ以前に、全く『親子』を感じさせないような他人行儀な接し方だった。
その上、日雀は『父』の事を『御当主』と呼んだ。
しかし二人は『ソレ』がさも当然といった表情だ。お互いに笑顔はない。
「今日お帰りになるとは聞いておりませんでした。お迎え出来ず、申し訳ありません」
「構わん。翌朝、また出る」
「左様で御座いますか」
「日雀よ、どうだ?」
「・・・何がでしょう」
「『非日常の生活』は楽しいか?」
『非日常の生活』、それは日雀の学校生活のことだった。
確かに、出雲家本家にとってみれば『学校に通う』ことは『非日常』に等しい。
その言葉に、日雀は瀬繼の目を見つめた。
お互いに、全く無表情といった案配だ。
「まだ、よくわかりません」
「・・・そうか」
そういうと、瀬繼はゆっくりと立ち上がった。
「手合わせ願おうか、日雀」
「・・・」
「約束を覚えているな?」
「・・・」
「『今以上に弱くならない』事を条件に『学校に通う』ことを許可したのだ」
「・・・分かっています」
「この闘いで、お前が以前より弱くなっていれば」
「明日から学校には行かなくてよい」
瀬繼の言葉は、裏を返せば『明日から以前のように家で武道に励め』という事だった。
日雀は拳を強く握りしめた。
「行くぞ」
「・・・はい」
二人は道場に向かって足を進めた。
時刻は、深夜0時を回ったところだった。
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翌朝、瀬繼は家を発った。
家にいた者全員がそれを見送った。
ふと、涼と要はその場に日雀の姿が無いことに気付く。
涼と要は慌てて日雀の部屋へと向かった。
しかし、そこには日雀の姿は無かった。
変わりに、脱ぎ捨てられた小袖と袴が無造作に投げられている。
小袖は所々血が滲んでおり、右腕で口を拭ったのだろうか、血を拭い取った跡がある。
涼は慌てて日雀の部屋の衣装箪笥を開けた。
「・・・制服が無いわ」
涼の言葉に、要は眉を寄せて脱ぎ捨てられた小袖を握りしめた。
「あいつ・・・まさかこの状態で学校に行ったのか・・・!?」
要は荒げた口調でそう言うと、踵を返そうとした。
しかし、涼が要の着物の袖をつかみ、それを止めた。
「駄目よ、要。日雀の決めたことだもの」
涼は強い視線でそう言った。
その言葉に、要は諦めるような表情で頷いた。
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日雀はテニス部部室にいた。
当然、まだ誰も来ていない。合い鍵を貰っていたので、中には入れた。
日雀は自分の体に目を向けた。
左の太股に巻かれた包帯。
右手の二の腕、左手も肘と手首の中間位置に包帯が巻かれている。
右頬には白いガーゼが宛われていた。
口の中に、まだ鉄の味が残っている。
どう見ても、普通の状態ではなかった。
日雀は小さく溜め息をつくと、先に着替えておこうと、素早くジャージとTシャツニ着替えた。
着替えの途中、自分の再度体を見た。
腹や肩の辺りにも痛々しいまでに青痣が出来ている。
「やっぱ勝てなかったかぁ・・・」
着替え終わった日雀は残念そうに大きく溜め息をつくと、部室に備えつけててあったパイプ椅子に座り込んだ。
包帯が見えぬよう、Tシャツの上からジャージとお揃いの上着を羽織った。
先程の情景が、日雀の脳裏をかすめた。
『どうした、こんなものか?私は未だ一撃もくらっていないぞ?』
『・・・がはっ・・・』
『陽が差し込んできた・・・どうやら、夜が明けたようだな』
『・・・』
『まぁ、良いだろう。陽が昇るまでお前は耐えた』
『・・・』
『次に私が帰るまでに、更に腕を磨いておくように』
「一撃も入れられなかったのは悔しいなぁ・・・」
日雀は前髪をかき上げながら自嘲気味にそう呟いた。
体の傷の痛みにはもう慣れた。
自分は武道家なのだ。傷など、絶えることはない。
ただ、悔しかった。
相手の攻撃を避けきれなかった自分。
相手に一撃も加えられなかった自分。
勝てるとは思っていなかった。しかし、一方的すぎる闘いだった。
弱い自分が不甲斐ない。
悔しさからか、涙が溢れてきた。
視界が滲む。
ふと、部室のドアが開いた。
突然のことに、日雀は驚いて顔を上げた。
「・・・出雲?」
そこにあったのは、部長である手塚の姿だった。